別冊・玉サバ応援隊 after2009~金魚な旅:玉サバ史
2013-05-04T06:23:43+09:00
tamakin-ojisan
別冊・玉サバ応援隊
Excite Blog
玉サバ応援隊の玉サバ史
http://tamasaba91.exblog.jp/17085633/
2012-01-17T18:00:00+09:00
2012-01-22T00:51:49+09:00
2012-01-17T18:50:43+09:00
tamakin-ojisan
玉サバ史
ただただ、単に金魚が好き
と云うだけで
そろりそろりと50年
玉サバはほんとうにいい金魚です。
あれも好き、これも好き
金魚はもっと大好き
大好きが乗じて身近にしているだけの
金魚が好きなおじさんでして
けっして愛好家と呼ばれる分際ではありません。
愛好会などと云う雰囲気には馴染めず
ネガティブ情報の流布やセクト化も無縁
「みんなステキ」
がいちばん楽しめると思っている次第なのです。
しかし
大好きだからこそ
誤ったまま広まって欲しくないと云う気持ちや
古臭いようですが
先達の伝承を大切にしたいというのが本音。
玉サバ応援隊の活動や発言を
嫌味にとらえる方もいるのでしょうが
少しだけ理解力の許容範囲を広げて
お読みいただければと思います。
その1
玉サバと玉リュウ
その2
吹流し尾について
その3
庄内金魚
その4
玉サバの梶尾
その5
越後玉サバ
その6
サバ尾こそ・・・
その7
玉錦と福ダルマ
そして地金魚としての誇り
つづく
その8
品種
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その1 玉サバと玉リュウ
http://tamasaba91.exblog.jp/17085641/
2012-01-17T17:00:00+09:00
2012-01-24T22:53:50+09:00
2012-01-17T18:55:01+09:00
tamakin-ojisan
玉サバ史
玉サバと玉リュウの違いは?
玉サバ、玉錦、福ダルマ そして玉リュウの違いは?
昨年末よりご照会を散見しておりますが
これらを同じ土俵で語るには
つたない表現力での活字化が困難ですので
玉サバを基点として
玉サバを取り巻く各金魚
そして 地金魚としての玉サバを
気ままに表題とし説明してみます。
なにぶん、文才のない
ひとり金魚好きの戯言のようなものですので
時間つぶしのつもりでお付き合いください。
玉サバと玉リュウ
玉琉(ここでは玉リュウと表記します)は
リュウキンの吹流し尾(一枚尾)に付せられた
市場流通での販売名であり
玉リュウ自体が累代されていることは
おそらくない
・・・と思われます。
関東方面では
「撥ね(ハネ)た金魚」や「金魚すくい用の金魚」を
お玉(おたま)
と総称するそうです。
玉リュウの需要も
関東方面が主流であり
当地東海地方では販売の機会に遭遇したことはありません。
ちなみに当地の販売市場の場面では
「玉リュウ」も「お玉」も
その呼び名は通じておらず
単純に「ハネ」と呼ばれたり「クズ(屑)」と呼ばれ
辛うじて金魚すくい用に利用されるくらいの
市場性価値のないものとされているのが常でして
育てられ、店頭に並ぶなどと云うことは
「望むになし」と云って過言ではないでしょう。
残念ながら玉サバも
このクズと一緒と云うのが
本隊が玉サバを応援する以前の
玉サバに対する市場認識であり
そこから脱却させたい!
という自己満足的な願望が
旗揚げの原動力でもあったのでした。
玉リュウなど見たことがない・・・
と云う方もいると思いますが、
当然です。
なんと云ってもクズなのですから・・・
個人的には
リュウキンよりも相性がよろしく
好きな金魚のひとつなのですが
運よく淘汰を免れた「混じり」的なものか
金魚すくい用として残された
クズの中でしかお目にかかれないのが実情
余程の柄つきがよろしいか、玉成りがよろしいか、
はたまた、リュウキン生産者の酔狂によらなければ
淘汰を免れることはありません。
ただ、高級リュウキンの生産が盛んな関東方面では
少なからず優良玉リュウが残され
金魚祭りでもリュウキンに混じり泳いでいるそうです。
機会があったら探してみてください。
彼らは見かけ玉サバと一緒に見えますが
玉サバを培った経験、見識から観察すれば
顔つき、鰭の性状、体躯の成型、色付きなど
「こりゃ、リュウキンだ」
という印象が判るものと思います。
テキストにはできませんが
背ビレの性状はかなり違いがみられると思いますし
いちばん判りやすい特徴として
彼らは双葉(2枚梶)の梶尾が多く
この一点をして玉サバとは違うと判定できるものですが
1枚梶の玉リュウも存在するので
集団としての具合を観察することは必然です。
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その2 吹流し尾について
http://tamasaba91.exblog.jp/17085649/
2012-01-17T16:55:00+09:00
2012-03-09T19:04:03+09:00
2012-01-17T18:57:07+09:00
tamakin-ojisan
玉サバ史
吹流し尾について
吹流し尾について
コメットや朱文金(以下シュブンと表記します)に代表される
吹流し尾について
その出現の経緯をたどってみると
フナ尾が次第に伸びた…のではなく
いずれもリュウキンやデメキン
と云った開き尾の金魚が関与しているようです。
すると
開き尾とフナ尾の交配の結果・・・
と想像される方が大勢であると思いますが
そもそも
リュウキンの1枚尾、玉リュウの尾型を
吹流し、または吹流し尾
と呼んだようで
開き尾の退化型が吹流し尾
(先祖返り)
と云うのが語源として順当であり
上記の交配という経緯も相乗して
退化現象がその出現を加速したものと云えるようです。
実際、開き尾に無頓着のまま交配を続ければ
いずれ吹流し一枚尾になることは
観察するに難しくはありません。
(不思議と短尾まで退化することは稀)
余談になりますが
アメリカで誕生したコメットなど
日本から輸出されたリュウキンを
金魚の飼育技術乏しいまま
彼の地の池で放置した結果、
いつの間にかコメットになっていた・・・
日本は退化した金魚を逆輸入したのだ
と云う逸話も聞知しています。
しかし、この逸話も現行金魚の出現型について
尾型形成の歴史ひとコマですから大切にしたいものですね。
それでは
玉サバもリュウキンの退化、
すなわち、玉リュウではないか…
と云う疑問も生じてくるのですが
そこで
一線を記しているのが
庄内金魚
(山形金魚とも呼ばれますがここでは庄内金魚と呼称します)
の存在です。
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その3 庄内金魚
http://tamasaba91.exblog.jp/17085663/
2012-01-17T15:57:00+09:00
2012-03-09T19:25:48+09:00
2012-01-17T18:59:51+09:00
tamakin-ojisan
玉サバ史
庄内金魚
庄内金魚
庄内金魚の誕生には、
ただ単にリュウキンの退化型である
…という説も存在するのですが
和金とリュウキンの交配
または
和金とオランダ獅子頭との交配
(以下和金はワキンと表記します)
から誕生したと云う説が伝承され
地元有志も地回り研究の成果として成文し公開されています。
寒冷地において金魚を楽しみたいという趣向や
かつては輸出され品評会も開かれていたと云う歴史
さらには
当然、市場への開発努力や介入もあったはずですから
後述の交配説が起源であることは
推察も容易で間違いないでしょう。
そして、改良当時は
まだ水槽飼育など普及していなかった時代ですから
その見方は泉水や家池などの池か
あるいは防火槽でのボウフラ退治を目的とした
上観
(うえみ)
すなわち
上から見る姿であり
体高や丸みよりも
深い緋質が追求され
吹流しよりもさらに優雅な見応えを求めて
振り袖、トンボへと改良が拡大
その存在は発展しながら地域に根付いて
有志や職人により継承されたと思われます。
昭和の中期 軒先にはモルタル防火槽がよく見られ 決まって金魚が・・・
ところで
出現の来歴は別として
庄内金魚とコメットとの相違を生産者に照会してみると
体躯の厚みや丸みなど
一見では判別が難しいものではありますが
いちばんの違いは
尾型の形成にある
とのことです。
つまり、庄内金魚の尾型は基本的に吹流し尾でありますが
コメットやシュブンのそれとは違い
「当才ではあまり伸長せず
2才以降、加齢とともに伸長する」
すなわち
晩熟型である
ということです。
実際、池上げ直後の当才を手のひらに載せてみますと
「尾が少し長い、太めのワキン」
と云う印象を受け、
見慣れたコメットとは一味、ふた味の違いがあります。
尾型形成について晩熟であると云う特徴は
好んでそのような資質が求められたとは思えません。
魅力的な長い吹流しを有する当才もいたはずです。
しかし
当地(弥富など)の養殖事情と比較した上
寒冷地での累代という地域、気候的な背景を踏まえ
金魚好きの目線から考察してみると
厳しい環境の越冬に際し
体質の弱い当才のうち
尾型の早熟なものが自然淘汰され
晩熟のものが生き残った結果
と考えられます。
この結果が累代を重ねるうちに
寒さに強い金魚
と名を馳せる
山形の地金魚
として
大いなる地盤が形成されたと思われるのです。
玉サバは
この
寒冷地に強い体質となった庄内金魚に
再びリュウキンを交配させて生み出された
とその来歴を伝え聞くところ
リュウキンの退化型である玉リュウとは
まったく違う所以なのです。
2002年の話になりますが
初めて越後入りし
産地の玉サバを目の当たりにしたとき
同じ吹流しの中にも
振り袖のように長いものと
短いものが混在していました。
もちろん、ここで云う「短いもの」は
福ダルマ短尾のようなものではありませんで
あくまでも
吹流しの中での長短です。
新鮮な、単なる金魚好きの目線には
2種類いますね
と云うのが実感でした。
この違いを市場に尋ねてみると
尾の長いタイプは
山形産の玉サバで
短いタイプ(晩熟型)が
本来の越後の玉サバ
とのこと。
そしてこのころ
尾の長い振り袖が人気となり
越後にも普及している。
尾の長いタイプは
山形県遊佐の阿部養魚場で
振り袖庄内金魚とのかけ戻しで作られた。
・・・なる情報をいただき
後年の山形取材のきっかけにもなりました。
こうした体験を振り返りながら
玉サバが培われた時代やその背景をリンクさせ
金魚好きの目線で考え、検討してみると
越後玉サバの尾型は
庄内金魚の耐寒性と資質を受け継いだ
晩熟型吹流し尾が原型
と云えると思うのです。
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その4 玉サバの梶尾
http://tamasaba91.exblog.jp/17085677/
2012-01-17T14:59:00+09:00
2012-01-26T00:22:33+09:00
2012-01-17T19:03:00+09:00
tamakin-ojisan
玉サバ史
開き尾の梶尾と玉サバの梶尾
開き尾の梶尾
開き尾の場合
欠点とはなりませんが梶尾は双葉のものが好まれます。
これは
特にランチュウに通じている方の趣向ともいえるのですが
原型である鮒からは
最も改良が進んだ金魚がランチュウである
したがって
金魚の王
KING of KINGYO
なのだ
などと称し冠を付されるランチュウにとって
一枚梶よりも改良が進んでいる
という解釈と
双葉の梶尾はフナ尾の出現が少ないため
と聞き及んでいます。
玉サバについても
庄内金魚にリュウキンを戻し交配させたものとすれば
当初は、双葉の梶尾も開き尾も出現したはずです。
しかし
庄内金魚の尾型形成と同じく
飼育環境が過酷だった泉水主流の時代
開き尾にとって越後での越冬は
雪や氷に尾を巻き込まれ
厳しく、苦難であったに違いありません。
その結果
開き尾は自然淘汰される傾向が進み
いつしか開き尾の出現が少ない
梶尾1枚
という特徴が優先、固定されていったのでしょう。
実際、2002年以降
数多の玉サバを目にしてきましたが
梶尾2枚の玉サバは見かけたことがなく
玉サバの梶尾は1枚
というのは
必然、かつ固有の特徴であると云えるのです。
玉サバの梶尾は1枚
今では
玉サバに通じている方なら
誰もが口にする玉サバの外観特徴である
梶尾は1枚
実は
本隊が2002年に越後入りし
2003年にかけて数多くの玉サバを観察して
確信し公開したものです。
だから
単なる金魚好きが唱えたことであり
昔から特徴づけられていたものではありません。
本隊より先にこの特徴を記す資料があれば
ぜひともご紹介ください。
絶対、その方が信用できますし
玉サバにとっては大切な記録になります。
正直なところ
自分自身も越後入りするまで
玉サバと玉リュウの違いが判りませんでした。
リュウキンのフナ尾を固定したもの
と思っていたほどで
もちろん
梶尾は1枚
・・・などと云うテキストはどこにもありませんでした。
越後入りし
玉サバの生産者を訪ねても
その違いを明確にする答えは得られず
おまけに
「玉リュウとして流通させたこともある」
などと云う情報もあり
玉サバと玉リュウを区別すること
が
最優先事項
となったのでした。
では
玉サバと玉リュウをどのように見分けるのか
と云うことになりますが
まずは双方
数多くの個体を見分し目利きを養うしかないと云う状況の中、
その前に
越後玉サバと玉サバ
と云う領域を整備しなければいけません。
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その5 越後玉サバと玉サバ
http://tamasaba91.exblog.jp/17085692/
2012-01-17T13:03:00+09:00
2012-04-20T15:00:33+09:00
2012-01-17T19:06:04+09:00
tamakin-ojisan
玉サバ史
越後玉サバと玉サバ
越後玉サバと玉サバ
すなわち越後玉サバと変わり玉サバ
本隊を立ち上げて10年となり
たくさんの方々とめぐり会い
同時にすばらしい玉サバたちにもたくさん会うことができました。
当地では「クズ」と評され
新潟県人でさえ知らなかった玉サバですが
現在はたくさんの方々にかわいがってもらい
うれしい限りであります。
本隊は越後在住ではなく、遠方に位置しておりまして
時間も距離も越後入りは容易でない状況にありますが
だからこそ真剣に情報を収集し、観察してきたつもりです。
その上で
地金魚としての玉サバを
越後玉サバ
として
本来の姿を鑑み
玉サバとしての将来を見つめてみましょう。
越後玉サバ
2003年ころだったと思いますが関東方面に
「いちご玉サバ」と云う名前で正体不明の玉サバ情報が流れました。
当時、山形遊佐の阿部養魚場玉錦による
真紅な色合いに感動して日が浅く、
なんとか実物を見てみたいとアンテナをUPしておりましたが
その後の情報を手に入れることはできませんでした。
それでも気持ちは募るばかりでして
やむなく山長養鯉場さんに照会した結果、なんと!
「うちから出した玉サバです」
・・・とのこと。
つまり
越後のブランド金魚として
越後玉サバの名で流通させた
とのこと。
それが、どうやら訛って いちご玉サバ
・・・くぅっ な、なるほどね
以来、本隊でも事あるごとに
「越後玉サバ」
と冠を付して呼んできましたが
今では
越後の地金魚と云えば越後玉サバ
と云われるほどの知名に至っています。
地金魚とは
ここで今一度
地金魚と云うことについて説明させていただくと
地金魚とは
その生誕地の土地柄や文化とともに
固有に伝承され受け継がれてきた金魚
のことを云います。
三大地金魚と呼ばれる
土佐金、南京、そして当地の地金は
天然記念物に指定されていますが
それらは希少性からではなく
伝承されてきた記録が残るとともに
保存会等がその資質を保持し未来につなげ活躍をしていること。
その上で特異な資質とともに
飼育方法や調色技術に
文化的価値
があるとみなされ
優良魚が天然記念物の指定を受けているものです。
金魚伝来以来
本邦では
「金魚を愛でる」
と云うこと自体が文化として受け継がれ
それは平和な世情のシンボルとして
現代でも息づいているところですが
地金魚は
伝承されてきた姿を継承すること自体が
貴重な文化遺産
と云えるのです。
だから
需要があるからと云って
姿や資質を変えるものではありません!
さて
ここでくれぐれも誤解しないでいただきたいのは
本隊は改良を否定しているのではありません。
自身の指向性を鼓舞するために
偏向して曲解する方が未だにいますが、非常に残念。
理解力を少しだけ深めて
人気や市場性に左右されずよくよく把握していただきたいのは
短尾も透明鱗も
近年の人気により普及する
「新しい玉サバ」
であるということです。
人気のある特徴を
昔からの継承であると肩書きすることはかっこいいし、
自身の指向性にも大いにプラスになるでしょう。
しかし、短尾の越後玉サバなど見たことがありません。
少なくとも
現在も本隊がお付き合いいただいている玉サバ職人のもとでは
目にすることができないのです。
金子養鯉場さんで透明鱗が生産されていますが
2002年の時点では池上げ当才数千尾の中
たった2尾の透明鱗を確認したのみであり
同時期のアズマニシキ交配や
その後の累代選別が
現状の優良玉サバに結びついているものと解釈できます。
2002年金子養鯉場産当時は貴重な透明鱗でした(2003年撮影)
すると
何十年も前の他種交配の話や
「昔からいたという話を聞いた」
というピンポイントな意見が出てくるのですが
この場合、こうした情報を現行表現型に直結させるのは
期待可能性を大いに含めた願望を根拠としていて
客観性を持たせるには無理があると思われます。
したがって
情報の背景を
金魚産地に住む立場から傍観して分析、考察してみると
まず
金魚史から玉サバの来歴を見つめるべきなのですが
越後の金魚は
「最初にサバ尾・玉サバありき」・・・ではありません。
玉サバの取材を続けていると
ときに
「在来」とか「在来種」
と呼ばれる金魚が登場しますが
これらは山形県でも同様に呼ばれており
ワキン
を指すものです。
越後でも他の地域と同じく
最初の普及はワキンであり
興味が深まったところでリュウキン
獅子頭などとつながったと思います。
そして
サバ尾が登場する以前は
越冬後、生存の可能性を考えると
リュウキン、獅子頭よりもやはり
ワキンが主力であったはずです。
しかし、隣県山形で
庄内金魚が完成すると
尾の短いワキンよりも
見応えのある吹流し尾が流行り、
もてはやされるうちに
「寒さに強い」
と云う資質を取り入れて
サバ尾が誕生
ワキンと主役を交代して広く越後に普及、
玉サバへとつながっていったと考えられます。
このワキンからサバ尾への過渡期
尾の短い・・・
つまりワキンが存在した可能性は十分認められると思いますが
サバ尾が時代を席巻するとともに
衰退消滅したことは
金魚と云えばサバ尾
と云う越後の金魚現状を視れば間違いないでしょう。
ですから
「昔いた短尾」というのは
ワキン、もしくはワキン型の残存であった可能性が
多いに認められるのです。
残念ながら本隊の取材では古老から「昔いた短尾」説は聞いたことはありません。
もちろん、「昔いた短尾」を表現する玉サバを目にしたこともありません。
こうして来歴や培われた背景を総合し
考え、見つめ直すと
地金魚としての越後玉サバ
にとって
外観特徴は
吹流し尾であること
そして
梶尾は1枚であること
が大切な資質であると云えるのです。
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その6 サバ尾こそ・・・
http://tamasaba91.exblog.jp/17085712/
2012-01-17T12:07:00+09:00
2012-01-26T00:42:34+09:00
2012-01-17T19:11:18+09:00
tamakin-ojisan
玉サバ史
金魚と云えばサバ尾
ところで
なぜ、越後では
金魚と云えばサバ尾
と云うくらいサバ尾が普及したのでしょうか?
その理由を探しながら
10年ほど越後を地回りし実感したのは
新潟県では
他県とは金魚に対する見方や価値観が違っていた
すなわち、金魚の目線ではなく
鯉の目線で金魚が存在してきた
と云う土地柄、地域特有の背景が考えられます。
つまり
越後は云わずと知れた「鯉の国」
鯉文化の中で金魚が培われてきた
と云うこと。
鯉と金魚
その文化は似て異なる感性により
楽しまれているのです。
越後での金魚は
鯉の目線で観賞され、あるいは扱われ
云うなれば
鯉あっての金魚
さらに絞り込めば
鯉の片手間に金魚
だったに違いありません。
そして
鯉のパートナーと成し得る
しかも
越後の冬を鯉と一緒に泉水で越冬できる金魚・・・
こうした環境や地域特有の背景が求めた条件をクリアし
共通の価値観を有し得た金魚こそが
サバ尾
だったのでした。
公園の池や泉水で
鯉に混じる金魚の姿を目にしたことがあると思いますが
そこそこ大きいワキンも
鯉の中では小さな金魚にしか見えません。
そこで見映えるには
やはり吹流し尾が有意義であり
かつ、越後では
大きくなって寒さに強い必要
があった。
だからしてのサバ尾だったわけですが
これを選択したのは
もちろん鯉職人。
イカリ虫などの駆虫、防虫の目安として
または
生産性の少なくなった池の池休めとして錦鯉代わりに
・・・といった具合
まさに鯉の片手間だったようです。
したがって
鯉の観賞目線になるのは当然で
上観となり玉型が求められたものではなかったはず。
また
流通自体も錦鯉市場によるもので
錦鯉とともにピンポイントに広まった痕跡はありますが
金魚産地となる弥富や大和郡山には縁遠く
金魚の市場にはほとんど姿を見せていません。
そんな中で戦後の第一次金魚ブーム
志ある金魚史家の先達によって
日本金魚が精査され
山形県の金魚として庄内金魚が
そして
新潟県の金魚として
玉サバ
が紹介されるに至ったと考えられます。
さて
玉サバを訪ねて地回りを行っていますと
本当の越後の地金魚は
サバ尾なんさ
という話をよく耳にします。
そして訪ね歩くほど
まさにそのとおり
その存在は地元に根付いていると実感するのです。
地金魚の存在を変えてしまおうなどと云う
不謹慎な気持ちはまったくありませんが
玉サバを語るにはまずはサバ尾ありき!
これが産地での純朴な目線なのです。
玉サバ応援隊として活動する中で
いつか
越後の地金魚はサバ尾
と新説を唱える方が現れるはず・・・
そんな期待が絶えません。
すなわち
玉サバとは
鯉文化の中で
鯉の目線にかなって培われた越後地金魚を
金魚史家による
金魚の目線で具現されたものであるからです。
その目線には
日本金魚を精査するという
熱意と志のもとであったのは間違いありませんが
大きく、鯉と一緒に泳ぐ立派なサバ尾よりも
リュウキン体型の方がニュース性があり
市場性も見いだせると判断されたかもしれませんし
あるいは
庄内金魚との区別化のために玉サバが選択された
はたまた
フナ尾と混同するような名であるサバ尾では
ブームの中で役不足と考えられてしまったのかもしれません。
つまり云い代えれば
玉サバは
新潟県が主張したものではなく
県外から認められたものであった可能性が強い・・・
と云うこと。
いずれにしても
先達が越後に地金魚を認めたころは
実は
立派なサバ尾たちが越後を席巻していた時代であった
ということは容易に推察でき
サバ尾こそが越後の地金魚
という主張は
当たらずとも遠からず…ばかりか
至極、的を得ている
と思えるのです。
]]>
その7 玉錦、福ダルマと地金魚の誇り
http://tamasaba91.exblog.jp/17102168/
2012-01-17T11:27:00+09:00
2013-05-04T06:23:43+09:00
2012-01-21T22:55:12+09:00
tamakin-ojisan
玉サバ史
玉錦と福ダルマ
そして地金魚としての誇り
玉錦と福ダルマ
玉サバを語る上で
サバ尾と同じく忘れてはいけない存在が
玉錦と福ダルマ
です。
玉サバを至上とする方々には
排他的なご意見もあるようですが
本末転倒、悲しいことですね。
玉錦
ご存知の方がほとんどと思いますが
山形県遊佐 阿部養魚場
阿部勝吉翁
により育種固定された玉サバ由来の金魚です。
阿部翁によりますと
新潟長岡にあった市場で玉サバの選別を手伝ったおり
数多の越後玉サバの中から
数尾の透明鱗
を見つけ持ち帰ったそうです。
もちろん、この当時
透明鱗の玉サバなどは存在していません。
突然変異的に出現した彼らは
当然、淘汰の対象だったそうですが
阿部翁は
美しい!
とその色合いに魅了されて
その後の玉錦来歴へとつながったのでした。
ちなみに
当初の透明鱗たちは
山形遊佐の地で
玉サバと交配させた後に落ちてしまったそうです。
非常に落胆されたそうですが
数多くの仔魚に資質が認められ
透明鱗の因子は非常に強い
と驚かれたとか。
この透明鱗の遺伝性については
福ダルマでも同様に強いと云われています。
金魚の透明鱗性が人気になったのは
1990年代の後半
弥富市場に桜錦が登場したことを皮切りに
2000年代に入ってから大勢となり
それまでは三色ものしかいなかったのが現実でした。
玉サバの選別において
透明鱗淘汰の歴史がなければ
普及はもっと早かったのかもしれません。
しかし、これも
伝承の経緯を考察する選別の歴史
として大切な情景ですね
阿部翁は、玉錦について
自家産となる山形玉サバの影響を受けながら
ヒレ先は振り袖性を有して
透明性の深い緋質を楽しみ
その上で
キラリと光る鱗があること
を非常に喜んでいました。
翁が求めたものは
それまでの
越後玉サバになかった透明鱗性
に
さらに深い緋質
を相乗させた
新しい色合いの感性
であり
本隊の推奨した玉型優先の指向性は
二の次だったと思われます。
玉型について
翁からは
環境的に水温が低いとの言もありましたが
実際にはそれほどの差異は感じられませんで
客観的な観察眼によれば
単純にそのような選別が行われてこなかった
のが実情と思います。
純朴な金魚職人として
おそらく
網透明鱗などと云う言葉も関与しないまま
新しい可能性を見い出し
鳥海山の麓
大自然満喫の心洗われる環境の中で
美しいと云う感性のまま完成されたのが
玉錦
なのです。
福ダルマ
一方
福ダルマ作出の
富山県魚津 宮島養魚場
宮島利明
にあっては
ある養鯉場で越後玉サバの中に
どんぶりを二つ合わせたような玉型
を認め、これに驚愕して
なんとか手に入れようとしましたが叶わなかったそうです。
ならば、自分で作ろう
と鯉師の遊び心のうち
育種の指向性を
玉 型
に集中させ改良を開始しています。
こちらも
原点は越後玉サバ
ですが
原型である越後玉サバに敬意して
普通鱗・長尾が福ダルマの基本
とされています。
本隊が
福ダルマとめぐり会ったのが10年ほどあまり前
その時点で
改良は30有余年を累々経過していましたので
宮島が玉型を手掛けて
およそ40年以上の時間を経過し
世代が交代積年したことになります。
当初は種親を落としたこともあったようですが
その後は自家産の累代を続けており
短尾、透明鱗の出現もありますが
考えようによっては
現存するもっとも古い越後玉サバの血統
と云えるのかもしれません。
地金魚としての誇り
透明鱗も玉型も
いずれにせよ
越後玉サバを起源としており
当時の玉サバに
その資質の存在が認められるものですが
その出現は非常に稀有であり
好きが乗じての観点感性からは
突然変異的な
貴重な存在
であったことは
こもごも育種に至った経緯を視れば間違いありません。
そして
どちらも県外からの職人が見つめた感性により
それらが見出された上、
彼らの熱意、指向性、情景に基づいて
特徴を派生させるまでに
積年の育種に至った歴史を総合すれば
原型越後玉サバには
透明鱗も玉型も求められていなかった
つまり
錦鯉の感性による越後では
透明鱗も玉型も需要がなかった
と云う状況が容易に推認できるのです。
それでは
越後の感性はつまらんものだったのか!
と云うことになりますが
金魚の目線からは
まったくそのとおり
だからこそ
何十年もの間、県外からは期待されず
金魚の流通に姿を見せないまま
幻と呼ばれながらクズ扱い
だったのです。
金魚界を知らずして
偏向のまま玉サバ至上とする方々には
非常に気の毒な背景となりますが
これが金魚の目線から見た
玉サバが歩んできた歴史であり
金魚ブームが熱帯魚へと大きく移行した
1960年代後半から数十年もの間
幻ともクズとも不名誉に揶揄される事態を招いたのです。
そして
もし、本隊が玉サバに介入しなかったら
それはもっと末永く続いたに違いありません。
だが、しかし!
玉サバ応援隊を旗揚げして
越後を駆けめぐるうち
クズの歴史も片手間の歴史も・・・
・・・確かにそのとおりだけれど
それでもずっと
いいも悪いもなく
越後の金魚として
地元から愛されてきた彼らを目の当たりにし
すばらしく誇らしい
と純粋な気持ちを実感するのです。
クズと呼ばれ片手間であった歴史
だけど
こいつらは鯉と一緒に池の中で冬を越せるからな
と嬉々として選ばれていく地元での姿
子供のときから金魚はこれしか知らない
とお祭りの金魚売りを待ち焦がれる大人たち!
こんなにも何気なく
こんなにもすばらしく
地元に愛され根付いている金魚は
玉サバだけ!
これこそが
地元だからこその
地金魚である誇り
なのです。
カッコ悪いですか?
いやいや
無理に美化され歴史観を失うよりも
ずっとステキ
すなわち
まさに
土地柄、地元に根付く
地金魚はこうあるべきだ
と云うのが
越後玉サバ
なのです。
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