2012年 01月 17日
その6 サバ尾こそ・・・ |
金魚と云えばサバ尾
ところで
なぜ、越後では
金魚と云えばサバ尾
と云うくらいサバ尾が普及したのでしょうか?
その理由を探しながら
10年ほど越後を地回りし実感したのは
新潟県では
他県とは金魚に対する見方や価値観が違っていた
すなわち、金魚の目線ではなく
鯉の目線で金魚が存在してきた
と云う土地柄、地域特有の背景が考えられます。
つまり
越後は云わずと知れた「鯉の国」
鯉文化の中で金魚が培われてきた
と云うこと。
鯉と金魚
その文化は似て異なる感性により
楽しまれているのです。
越後での金魚は
鯉の目線で観賞され、あるいは扱われ
云うなれば
鯉あっての金魚
さらに絞り込めば
鯉の片手間に金魚
だったに違いありません。
そして
鯉のパートナーと成し得る
しかも
越後の冬を鯉と一緒に泉水で越冬できる金魚・・・
こうした環境や地域特有の背景が求めた条件をクリアし
共通の価値観を有し得た金魚こそが
サバ尾
だったのでした。
公園の池や泉水で
鯉に混じる金魚の姿を目にしたことがあると思いますが
そこそこ大きいワキンも
鯉の中では小さな金魚にしか見えません。
そこで見映えるには
やはり吹流し尾が有意義であり
かつ、越後では
大きくなって寒さに強い必要
があった。
だからしてのサバ尾だったわけですが
これを選択したのは
もちろん鯉職人。
イカリ虫などの駆虫、防虫の目安として
または
生産性の少なくなった池の池休めとして錦鯉代わりに
・・・といった具合
まさに鯉の片手間だったようです。
したがって
鯉の観賞目線になるのは当然で
上観となり玉型が求められたものではなかったはず。
また
流通自体も錦鯉市場によるもので
錦鯉とともにピンポイントに広まった痕跡はありますが
金魚産地となる弥富や大和郡山には縁遠く
金魚の市場にはほとんど姿を見せていません。
そんな中で戦後の第一次金魚ブーム
志ある金魚史家の先達によって
日本金魚が精査され
山形県の金魚として庄内金魚が
そして
新潟県の金魚として
玉サバ
が紹介されるに至ったと考えられます。
さて
玉サバを訪ねて地回りを行っていますと
本当の越後の地金魚は
サバ尾なんさ
という話をよく耳にします。
そして訪ね歩くほど
まさにそのとおり
その存在は地元に根付いていると実感するのです。
地金魚の存在を変えてしまおうなどと云う
不謹慎な気持ちはまったくありませんが
玉サバを語るにはまずはサバ尾ありき!
これが産地での純朴な目線なのです。
玉サバ応援隊として活動する中で
いつか
越後の地金魚はサバ尾
と新説を唱える方が現れるはず・・・
そんな期待が絶えません。
すなわち
玉サバとは
鯉文化の中で
鯉の目線にかなって培われた越後地金魚を
金魚史家による
金魚の目線で具現されたものであるからです。
その目線には
日本金魚を精査するという
熱意と志のもとであったのは間違いありませんが
大きく、鯉と一緒に泳ぐ立派なサバ尾よりも
リュウキン体型の方がニュース性があり
市場性も見いだせると判断されたかもしれませんし
あるいは
庄内金魚との区別化のために玉サバが選択された
はたまた
フナ尾と混同するような名であるサバ尾では
ブームの中で役不足と考えられてしまったのかもしれません。
つまり云い代えれば
玉サバは
新潟県が主張したものではなく
県外から認められたものであった可能性が強い・・・
と云うこと。
いずれにしても
先達が越後に地金魚を認めたころは
実は
立派なサバ尾たちが越後を席巻していた時代であった
ということは容易に推察でき
サバ尾こそが越後の地金魚
という主張は
当たらずとも遠からず…ばかりか
至極、的を得ている
と思えるのです。
by tamakin-ojisan
| 2012-01-17 12:07
| 玉サバ史